明治時代の年表,弥生式土器(『日本の人類学』)

日本における自然人類学の歴史について,個人的な覚え書きです.
ストーリーの構成や内容は [1] を参考にしています.
(よくまとまった読み応えのある本ですので,機会があればぜひご覧になってみてください.)
間違いや誤植などあるかもしれませんので,十分にご注意ください.

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1888年 坪井と小金井の北海道調査旅行.同じものを見てきたに関わらず,この旅行で坪井・小金井はそれぞれコロボックル説およびアイヌ説が正しいことを確信する.
学会誌が学術的情報交換の役割を担う.銅剣の拓本,本体,鋳型の対応関係など.
研究例としては,人体計測,蒙古斑,イナウ,石器や土偶,竪穴住居や貝塚など.


■1889年 小金井が北海道を再調査.
坪井が3年間の英国留学に旅立ち,学会幹事を白井光太郎(のちに植物病理学の権威となる [2])に任せる.
学会費は月あたり50,30,15銭の三種で,1910年までこの金額.ちなみに,当時の給与水準は,
1885年 講師(小金井) 100円/月
1886年 教授(小金井) 150円/月
標本整理係(鳥居) 4.5円/月
という感じでずいぶん格差がある.


■1890年 学会幹事が,歴史学者の三宅米吉 [3] に.学問に忠実で人柄の良い人物だったらしい.
雑誌に載ったものは,考古学に関する報告が多い.北海道から九州まで,石器時代から古墳時代まで,さまざまな遺跡や遺物について.ほかには,民族・民俗学(例: 拍手の起源,婚姻習慣,身振り言語,…).自然人類学の研究は低調.理論に関する論文(コロボックル論争関係など)も多数.海外のニュースも掲載されていた(欧米の博物館のこと,南米や中東の民族学や考古学など).
考古学的な研究と民族学的な研究の報告者が同一だったりなど.一般人類学の精神や学問の未分化な状態の現れと考えられる.


■1891年 羽柴雄輔 [4] が磨製石鏃をはじめて図示した.
坪井がロンドンの万国東洋学会に参加.吉見百穴古墳時代後期)の発表をして金牌を受賞する(日本の人類学者によるはじめての国際学会発表).


■1892年 坪井が帰国し,人類学専攻の教授になる.
若林勝邦が,関東の貝塚の分布や,中部,東北,山陽,九州などの調査結果をさかんに報告.


1893年 西ヶ原貝塚 [6] の調査.はじめて行なわれた発掘らしい発掘.
鳥居が標本整理係として人類学教室にやってくる.この頃教室にいたのは,大野延太郎(画工・考古学者,35),若林(助手,33),坪井(教授,32),八木奘三郎(小間使い・学者,26),鳥居(標本整理係・学者,22).
坪井が学会組織を固める.中央委員7名 + 地方委員の設置.会長は神田孝平で,幹事は坪井と若林.
依然として石器時代の研究が大半を占めていた.


■1894年 日清戦争が起こる.
学会創立10年,会員数は188人.
小金井のアイヌの研究が報告される.ドイツ語で海外の雑誌にも寄稿.
石器時代の遺跡・遺物は膨大なデータが蓄積してきたが,土器の編年などはまだだった(縄文中期の陸平式が,縄文後期の大森式より新しいとされるなど).
足立文太郎が医学部を出て助手になる(当時28).


■1895年 日清戦争が終わる.戦争の余波は,鳥居の遼東調査,伊能嘉矩 [7] らの台湾調査,小金井の清国捕虜の計測,などのかたちで学会にもあらわれる.
坪井「材料蒐集のみに忙しかった時期はすぎさった」.
考古学会 [8] が人類学会からわかれる.幹事は若林勝邦と下村三四吉.実際に会合が開かれたのは翌年のことだった.


■1896年 坪井が人類学会の会長に選出される.
台湾が日本領土となった関係で,台湾関係の記事が増える.
佐藤伝蔵による陸奥亀ケ岡 [9](縄文時代: 遮光器土偶が出土)の発掘報告など.
弥生式土器(後述)の名称が学会誌に登場する.
海外の紹介記事も増えてきた.


■1897年 自然人類学は低調で,羽柴の一産多子や伊能の台湾調査くらい.
古墳関係の発表が増える.
坪井が人類学の啓蒙に奔走する(大学や師範学校での講義,研究会,講習会,学会,…).


■1898年 初代会長の神田孝平 [10] が亡くなる.人類学会の初代会長.兵庫県令,元老院議員,文部省輔を勤めたほか,菊池大麓とともに東京数学会社(日本数学物理学会)をおこすなどした.
言語学会や社会学会が誕生した.
北区田端道灌山 [11] の竪穴より,弥生時代の石槍がみつかる.


■1899年 当時の人類学会会員数は290名.
鳥居がアイヌの土器・石器・竪穴住居の「発見」.
内務大臣訓令により,学術芸妓もしくは考古学の資料は宮内省に,石器時代遺物は東大に通知することとなった.


■1900年 小金井が,パリの万国医事会議に出席し,名誉会長のひとりに選ばれる.小金井はその後パリの第二回万国人類学・考古学会議に日本代表として出席.
人類学専攻にはじめての学生が入学(松村瞭: モースとともに大森貝塚を発掘した松村任三の子).


■1901年 稲荷山貝塚(愛知県豊川市)より縄文時代晩期の人骨が完全に近いかたちで発見される.
山崎直方(東大地理学教室の創始者,日本地理学会の創設者)が,日本人類学雑誌の要約を,ウィーン人類学雑誌に送りはじめる.
千島の調査結果を鳥居が報告.コロボックル説に痛烈な打撃を与える.


■1902年 論争,栄誉,新発見でにぎわった年.
コロボックル論争の加熱,鳥居による紅頭嶼の報告,八木奘三郎による九州での焼米の発見,蒔田鎗次郎による石器時代の水銀朱の使用の指摘,古墳や横穴の発見,坪井の熱心な普及活動など.


1903年 コロボックル論争が最高潮に達した年.
坪井の普及活動「まいておけばどこからか実ってくる」.


■1904年 日露戦争がはじまる.
幻燈が流行りだし,講演などがやりやすくなる.
人類学会ではあいかわらず遠足が行なわれており,たまたま千葉県堀之内に足をのばしたとき,人骨が発掘された.翌年,高島多米治が完全な人骨を発見する.


■1905年 日露戦争が終わる.
若林が43歳で亡くなる.人類学会の古くからの会員で,晩年は博物館に移りやや疎遠になっていたが,先史学や学会運営で実績を残した人だった.柳田国男(当時30)と南方熊楠(当時38)の名前が人類学雑誌に登場する.
坪井につぐふたり目の大学院生として,石井収蔵が入学.


1906年 鳥居が家族とともにモンゴルに行く.
長谷部言人が東大医学部を卒業.
英国人マンローと八木が神奈川県の三ツ沢貝塚 [12] を発掘.
千葉県の余山貝塚 [13] からも,頭骨が得られる.
人類学雑誌に,ダーウィンの『人間の由来』の翻訳が載りはじめる.


■1907年 公爵二条の銅駝坊人類学陳列館から派遣された野口完一による大規模な人骨採集(岩手県高田市の中浜沢貝塚など).
早稲田大学で,人類学資料の蒐集整理が行なわれた.


■1908年 台湾や韓国での発見.
遺伝様式の研究がおこりはじめる.ちなみに,メンデル遺伝学が再発見されたのが1900年.


■1909年 世界では,人類の進化史上の位置関係がほぼわかってきていたが,絶対年代はあやふやだった.
高島多米吉が,余山貝塚 [13] より十数体の人骨を発見.


■1910年 学会費の値上げ.


■1911年 雑誌の発行元が変更になる.


■1912-13年 発行頻度の増加策が失敗し,二年間あまり雑誌が休刊状態になってしまう.
坪井が,ペテルブルグの万国学士院連合大会にて客死(当時50歳).


弥生式土器 [14]
1884年に有坂鉊蔵(軍人・工学部教授,当時16 [15])が,現在の文京区弥生にあたる向ヶ丘貝塚で,赤みがかかった大壺をみつける.翌年,坪井,白井とともに新たに土器を発見する.その後,向ヶ丘の新地名をとって弥生式と呼ばれるようになる.
1894年頃からは蒔田鎗次郎がさかんに調べはじめ,研究論文をいくつも出した.

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参考
1 寺田和夫. 1981 (初版), 『日本の人類学』, 角川書店, 東京.
2 白井文庫 (国立国会図書館) http://www.ndl.go.jp/nature/colle/colle_2.html
3 三宅米吉 (和歌山県情報館) http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/022100/senjin/miyake.html
4 羽柴雄輔 (荘内日報社) http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/exp99.html
5 吉見百穴 (Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%90%89%E8%A6%8B%E7%99%BE%E7%A9%B4&oldid=34913062
6 西ヶ原貝塚 (北区) http://www.city.kita.tokyo.jp/misc/history/history/da11.htm
7 伊能嘉矩 (Wikioedia) http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%BC%8A%E8%83%BD%E5%98%89%E7%9F%A9&oldid=35833236
8 日本考古学会 (Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E4%BC%9A&oldid=37838106
9 亀ケ岡石器時代遺跡 (Wikioedia) http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%BA%80%E3%83%B6%E5%B2%A1%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3%E9%81%BA%E8%B7%A1&oldid=36190150
10 神田孝平 (Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A5%9E%E7%94%B0%E5%AD%9D%E5%B9%B3&oldid=37751698
11 ひぐらしの里 散策記 (e-ひぐらし) http://www.e-higurashi.com/data/0301/0301_002/0301_002.html
12 三ツ沢貝塚 -PDF (横浜市歴史博物館) http://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&cd=1&ved=0CBgQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.rekihaku.city.yokohama.jp%2Fcms_files_maibun%2Fpr_brochure%2FMAIY_10L.pdf&ei=aJMuTqa6D8ejmQXd2Zkx&usg=AFQjCNFYIByeJdEgU6QmA5bx6WVbXdOxqQ&sig2=3sDPopIueXvs7-KqUkwI3A
13 余山貝塚 (銚子ポータルサイト) http://www.sukikuru.net/cdb/modules/soapbox/article.php?articleID=63
15 弥生式土器 (Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%BC%A5%E7%94%9F%E5%BC%8F%E5%9C%9F%E5%99%A8&oldid=38317688
16 有坂鉊蔵 (Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9C%89%E5%9D%82%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E8%94%B5&oldid=32941917