学会の動き,人類学科の創設,戦争と研究と敗戦(『日本の人類学』)

日本における自然人類学の歴史について,個人的な覚え書きです.
ストーリーの構成や内容は [1] を参考にしています.
(よくまとまった読み応えのある本ですので,機会があればぜひご覧になってみてください.)
間違いや誤植などあるかもしれませんので,十分にご注意ください.

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■学会の動き
1934年 人類学会創立50周年.総会,記念講演会,松村瞭による「東京人類学会五十年史」など.生体計測と観察の仕事(骨形態,指紋,遺伝形質など)が増加してきており,研究者の層もかなり厚かった.
また,この年に,民族学民俗学が明確に分化した(日本民族学会の発足と,機関誌『民間伝承』の刊行).背景には,岡の篤志で出版されていた『民俗学』が廃刊に追い込まれた事情がある.
1936年 中国で発掘にあたっていたワイデンライヒ [2] を学会に招待する.
1939年 東京人類学会・民族学会の連合大会の第四回が開かれて,終わる.東大に赴任してきた長谷部が開催を好まなかったのが原因のよう.


■人類学科の創設
1936年 東大人類学教室の松村が,5月に突如亡くなる(55歳).レントゲン検査のためにバリウムを飲んだ直後だったそう.翌月,須田昭義が講師に昇格するが,当時36歳で,人類学教室を率いていくには大任だった.
1938年 東北大学の長谷部言人が教授として赴任することになる.坪井の逝去時以上の危機に瀕しているとして,清野が手をまわしたという話もある.長谷部は,以下の3点に注力した.
・制度的なところ: 人類学科を創設して,専門家の養成にとりかかる.
・人類学の進むべき道: 多方面の人を集め,あまり専門分化しすぎないようにしたい.
・学会のことを起源から考えてみる: 再刊した『ドルメン』第一号で,学会創期の回想をする座談会(鳥居,八木,下村など)を司会した.
1984年 学科の設置が決定する.長谷部は積極的な意欲をもって専門家の養成にとりかかった.本格的に研究するには基礎医学の知識が必要だろうということで,医学部の講義や実習をとらせた.選択科目は,関連する隣接分野を広く学びながら理解させるカリキュラムだった.実習は身体計測や発掘だった.
当時の教室は,身分のはっきりしない人たちが集う寄り合い所のような役割も果たしていた.学生の入学卒業は学会全体にとってもある種の事件であり,学会誌で公表されたりしていた.


■戦争と研究と敗戦
日中戦争の始まる前後から,海外への学術調査団の派遣が目立ってくる.調査は,戦時に占領地や征服地で行なわれたが,東アジアの地域集団の身体的特徴を明らかにするうえで大きな役割を果たした.
敗戦前には,古くからの会員が次々に亡くなる.1938年には浜田耕作(57歳),下村三四吉,1940年には石田収蔵(61歳),1941年には有坂鉊蔵(74歳),1942年には白鳥庫吉,八木奘三郎,1944年には小金井良精(85歳),1945年には足立文太郎.

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参考
1 寺田和夫. 1981 (初版), 『日本の人類学』, 角川書店, 東京.
2 Franz Weidenreich (Wikipedia) http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Franz_Weidenreich&oldid=438610184