雑誌『ドルメン』,土器の編年研究,ミネルヴァ論争,山内清男(『日本の人類学』)

日本における自然人類学の歴史について,個人的な覚え書きです.
ストーリーの構成や内容は [1] を参考にしています.
(よくまとまった読み応えのある本ですので,機会があればぜひご覧になってみてください.)
間違いや誤植などあるかもしれませんので,十分にご注意ください.

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■雑誌『ドルメン』
やや一般向けにつくられた人類学の雑誌.大先生が相譲らずで,研究交流がはかどらない現状に対し,先生方を招いて気ままにしゃべってもらうような役割を持たせた雑誌をつくりたいということで,1931年に岡茂雄が企画した.
岡はまず京都大学浜田耕作に相談し,清野らを呼び集めて話し合い,賛同を得た.次に岡は,東京の有力な学者をひとりずつ訪問したところ,予想外の好感をもって迎えられた.二冊分くらいの原稿がすぐさま集まり,1932年に創刊号が出版された.ちなみに原稿料は採算的に払える状況ではなく,創刊号の後半は,岡が召集された任地の松本から印刷所に送られた.企画はだんだんに理解され,「もったいないくらい,原稿が集まった」.
岡が出版界をはなれた1935年に,4巻8号で出版は途絶えてしまう.シリーズが終わった後,考古学者の甲野が『ドルメン』の方針にのっとった『ミネルヴァ』を出すが,これも1936年に10号で終わってしまう.そのあと復刊を望む声が高く,1938年に再刊される.しかし戦局の進行と岡の徴用のため,再刊は9号で終りになってしまう.


■土器の編年研究
山内清男などの仕事により,土器の編年研究が進む.弥生時代は農耕が一般化された時期であるとの認識も,山内により指摘されている.『ドルメン』には,
縄文時代: 東日本を中心として発達した狩猟・漁撈文化
弥生時代: 大陸との交渉をもち,特に西日本で展開した原始農耕文化,金石併用
古墳時代: 大陸文化を受け入れ,鉄器時代に相当
という,かなり確実ではっきりしたまとめが載っている.


■ミネルヴァ論争 [2]
縄文終末期に関して,雑誌『ミネルヴァ』上でたたかわされた論争.
歴史学者喜田貞吉が,宋銭と亀ヶ岡式土器が併出した事例から,東北地方の縄文時代の終わりを鎌倉時代頃にまで引き上げた.それに対し,山内は,各地の時や文化の編年研究(縦)と,それらの地域間のつながり(横)がだいぶわかってきていることから,縄文文化の終末は日本各地でそう大差ないと反論する.
喜田が引いたのは,ごく少数かつ子どものいたずらが強く疑われる例であった.この論争は,正道をきちんと進む若手の考古学者たちの成果が,この時代にはまだ十分に理解されていなかったことを示している.


■山内清男 [3] [4]
「縄文学の父」とも呼ばれる考古学者.層位学的研究手法を用いて遺物の年代決定を本格的に行ない,縄文土器をはじめて全国的に編年した.土器編年の他にも,サケ・マスの漁撈のため東日本の食資源は豊富であったとする「サケ・マス論」の提唱,弥生時代における農耕存在の提唱,放射性炭素年代測定への批判などでも有名である.

1919年 東大人類学研究室予科に進学し,形質人類学や発掘調査の研究に従事した.
1924年 東北大学の長谷部の副手となる.

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参考
1 寺田和夫. 1981 (初版), 『日本の人類学』, 角川書店, 東京.
2 亀ケ岡文化 (函館市) http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_02-03/shishi_02-03-05-00-02.htm
3 山内清男と日本考古学 (東京大学総合研究博物館) http://www.um.u-tokyo.ac.jp/dm2k-umdb/jomon/yamanouchi.html
4 山内清男 (Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B1%B1%E5%86%85%E6%B8%85%E7%94%B7&oldid=36007456