大正時代の学会・教室,松村瞭(『日本の人類学』)

日本における自然人類学の歴史について,個人的な覚え書きです.
ストーリーの構成や内容は [1] を参考にしています.
(よくまとまった読み応えのある本ですので,機会があればぜひご覧になってみてください.)
間違いや誤植などあるかもしれませんので,十分にご注意ください.

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■大正時代の学会・教室
必ずしも順調ではなかった.人類学雑誌は2-3ヶ月の合冊号になったり,ページ数の激減があったり.1923年の関東大震災後は,しばらく休刊に追い込まれた.しかし,1925年頃からは清野らの大量の寄稿がはじまり,持ち直す.

学会の事務を負った東大人類学教室は,鳥居(1922年に助教授),石田収蔵(講師),柴田常恵 [2]・小松真一(助手),松村瞭(副手)という顔ぶれだった.
専攻にはぽつぽつ学生が入学しはじめる.考古学者 山内清男 [3] は選科生として入学.卒業後は東北大学の長谷部のところに副主として着任した.長谷部は解剖学が専門で,山内は東北地方の縄文土器の研究を専任することを期待された.
民族学・人口学で後に大家となる岡正雄古野清人小山栄三などが東大文学部に在籍しており,人類学の講義を聞きにきていた.ちなみに,鳥居の授業は,人類学の壮大な体系を夢見たスケールの大きなものだったらしい.

1924年,松村の学位論文に対し鳥居が再考を要求したところ,大学側が鳥居の頭を飛び越えて小金井を主査にしてしまう.この事件がこじれ,鳥居は辞職.ちなみに,松村の学位論文は,日本人の頭形と身長を出身地別に考察した周到なものだった.1925年,石田が退官し,助教授に任命された松村が,実質上の教室の長になる.


■松村瞭
1880年 松村任三 [4] のひとりっ子として生まれる.松村任三はモースらと共に大森貝塚を発掘した植物学科の教授.
1900年 人類学教室の第一回選科生として入学
1907年頃から 日本人の体質調査
1913年 坪井の死後,学会の評議員になる.
1925年 学会を主宰する立場に.

代表的な発掘調査には,1918年の国府遺跡,1923年の千葉県加曾利貝塚 [5],1925年の千葉県姥山貝塚 [6] がある.晩年には化石人類にも興味を示した.
沈着,寡黙,専門一点張りの真面目な人で,坪井とは好対照だったらしい.正確さ・自然科学的方法への固執などは,過渡期の人類学にプラスにはたらき,古物研究と混同されがちな空気を一掃した.

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参考
1 寺田和夫. 1981 (初版), 『日本の人類学』, 角川書店, 東京.
2 柴田常恵氏資料の研究 (国学院大学) http://www2.kokugakuin.ac.jp/frontier/projects/shibata.html
3 山内清男と日本考古学 (東京大学総合研究博物館) http://www.um.u-tokyo.ac.jp/dm2k-umdb/jomon/yamanouchi.html
4 松村任三 (Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%BE%E6%9D%91%E4%BB%BB%E4%B8%89&oldid=35829859
5 千葉県加曾利貝塚博物館 (千葉市) http://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/shogaigakushu/kasorikaizuka/top.html
6 姥山貝塚 (市川市) http://www.city.ichikawa.lg.jp/edu09/1531000004.html